下関の歴史

最後の源平合戦の地、武蔵と小次郎の決闘の地

下関は古くより、中国大陸や朝鮮半島など東アジアからの本州における玄関口であり、九州と隣接する港湾都市として発展したため、日本史における重要な節目に幾度となく登場してきました。

古代・中世における下関での最も重要な事件は、1185年(寿永4年・元暦2年)、源平最後の戦いとなった「壇ノ浦の合戦」です。

赤間神宮

平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちをし、流れ流れて下関に拠点を置きました。しかし、関門海峡の潮の流れを利用し平家を攻めた源義経率いる源氏軍により、平家の軍勢はに敗れ滅亡しました。
このとき、わずか8歳の安徳天皇は、平時子(二位尼)に抱かれながら関門海峡に身を投げ崩御しました。こののち源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、貴族政治から武家政治へと体制が大きく変わっていったのです。

なお、下関市の「赤間神宮」は幼くして亡くなった安徳天皇を祀っており、平家一門を祀る塚があることでも有名です。『耳なし芳一』の舞台であることでも知られています。

モンゴル帝国とその属国である高麗王国よにって行われた日本侵攻、いわゆる「元寇」の後、鎌倉幕府は下関に非常事態に対処するため、長門探題(最前線防衛機関)を設置して北条一門を守護として任命し防備させました。
鎌倉幕府が滅亡すると南北朝の騒乱の中で台頭してきた大内氏が勢力を強め、関門両岸を支配地として国内の流通だけでなく、対中国・朝鮮の貿易の利権を独占するようになりました。

大内氏が戦国の騒乱の中で滅亡し、この地は広く中国地方を支配していた毛利氏の領地となるも、毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れると、防長二か国(現山口県域)に領地を減らされ、下関には萩本藩の支藩として1600年(慶長5年)に長門府中(長府)藩が置かれ、後にその支藩清末藩が置かれました。

江戸時代、下関は朝鮮通信使の寄港地となり、さらに西廻り航路と九州航路の結着点として北前船が就航し、大いに栄える事となりました。

江戸時代の有名な出来事としては、1612年(慶長17年)に巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことがあげられます。巌流島(船島)は関門海峡に浮かぶ島のひとつで、今は公園として市民に親しまれています。

時代は江戸から明治へ、下関市の誕生。

高杉晋作像

幕末になると、長州(萩)藩では尊王攘夷派が優勢となって、1863年(文久3年)に関門海峡を通過するアメリカ商船を砲撃して攘夷を決行しました。しかし1865年(元治1年)にはアメリカ・オランダ・イギリス・フランスの4か国連合艦隊から報復の攻撃を受け、下関沿岸の砲台も占領されて敗北した下関(馬関)戦争が行われました。
長州藩士であった高杉晋作は、伊藤博文らとともにこの地で徳川幕府を倒すための奇兵隊を結成し、倒幕への流れに大きく貢献しました。江戸幕府崩壊後、長州藩は薩摩藩とともに明治政府の中核になっていきました。

下関は明治以降も交通の要衝地として発展を続け、1889年(明治22年)には日本で最初に市制を施行した31の市の一つとなりました。この時は赤間関市(あかまがせきし)という名称でしたが、1902年(明治35年)に下関市と改称されました。

1893年(明治26年)には大阪に次ぎ全国で2番目の日本銀行支店が下関に開設されました。
1895年(明治28年)には日清戦争の講和会議が下関の春帆楼で開催され、清の全権李鴻章と日本全権伊藤博文・陸奥宗光との間で下関条約(日清講和条約)が締結されました。これにより、日本はヨーロッパやアメリカと同じ列強の仲間入りをすることになったのです。

関門トンネル開通など、近年の下関の歴史年表

下関条約以降、現在まで下関で起きた出来事をまとめました。

1905年(明治38年) 関釜連絡船が就航。
1942年(昭和17年) 世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通。
1958年(昭和33年) 世界初の海底国道トンネルである関門国道トンネルが開通。人道も同時開通。
1962年(昭和37年) 下関市立大学開学。
1963年(昭和38年) 水産大学校設置。
1966年(昭和41年) 下関漁港が年間水揚げ量日本一となる。(約28万5千トン)
1973年(昭和48年) 関門橋が開通。(開通時点では日本および東洋で最長)
1975年(昭和50年) 山陽新幹線開業。新関門トンネル開通。(開通当時は日本一長い鉄道トンネル)
2001年(平成13年) しものせき市立水族館 海響館オープン。
2002年(平成14年) 海峡メッセ下関にて国際捕鯨委員会 (IWC) の年次総会を開催。
2005年(平成17年) 下関市、豊浦郡菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併し、新たな下関市が発足。