創業から現在まで

好奇心と行動力の塊であった初代

酒井商店の創業は昭和初期にさかのぼります。


初代・酒井徳市(とくいち)は、もともとは料理人でしたが、持ち前の好奇心と行動力で、様々なビジネスに積極的にチャレンジしておりました。
魚介販売を手がけ、当時はまだ珍しかった東京へのトラフグの鉄道貨車搬送も行うようになりました。

戦後、その活動はますます活発になり、
下関唐戸魚市場株式会社の創業にかかわり、1952年に有限会社酒井商店を設立し最古参の仲卸として市場に参入を果たしました。
下関は水産都市として全国有数の地位を占めるようになり、「ふぐの街」としても知られるようになったのもこの頃になります。

仲卸業の他にも、産地から魚を市場に運ぶための運搬船の運営や、水産物の養殖なども研究・実践していました。
まだ養殖トラフグが市場に出回るずっと以前に、山口県でトラフグの養殖が実現できないかと、研究機関に調査依頼をした記録も残っています。当時は水温の関係から山口県での養殖は実現しませんでしたが、常に先を見据えた行動をしていた徳市らしいエピソードです。

今では下関の代表的なお土産物のひとつになった民芸品「ふく提灯」ですが、冬場が中心のふぐ仲卸業の夏場の副業にと考案したのは徳市でした。

このように進取の気性に富み、仲卸という枠に収まりきれない徳市から、酒井商店は始まりました。

堅実な経営と天然トラフグにこだわった二代目

二代目・酒井敏也(としや)は、東京築地市場の大手荷受け会社で修行した後、下関に戻り家業である酒井商店を継ぎました。


初代のある意味派手な経営を反面教師としたのか、堅実で地道な経営を続け、1961年には株式会社へと改組するまでに事業を成長させました。
しかし、在任中に保有の船舶の沈没事故により社員に死者を出す不幸がなどあり、堅実さとは裏腹に事業の安定はなかなかはかれませんでした。

時代は高度成長期から安定期を経てバブル期が到来、ふぐの業界もそれぞれの景気に翻弄されました。
時代の変化とともに天然トラフグの漁獲量が激減、養殖トラフグのシェアが拡大し続け、ふぐ業界も転換期を迎えていた中でも、敏也はかたくなに天然トラフグにこだわり、養殖トラフグを扱おうとはしませんでした。

時代の変化に柔軟に対応し、全国に高品質なふぐを提供する三代目

現社長である三代目・酒井一(はじめ)は、当初家業を継ぐことをまったく想定しておらず、大学・大学院を経て出版社に就職したものの、二代目の死去とともに家業を引き継ぎ、酒井商店社長に就任しました。

バブル崩壊後の不景気の中で養殖トラフグも取り扱うよう方針を変え、普及し始めていたインターネットによるふぐ料理の通販宅配をいち早く手がけ、卸売業だけでなく小売にも取り組むなど、時代に沿った柔軟な対応を行ってきました。

さらに自社ビルにトラフグ専門料理店「ふぐ処さかい」を併設し、仲卸だからこそできる「手ごろな価格で高品質のトラフグ料理を提供する」ことをモットーとし、お客様にも地域一番店のお声をいただくなど好評を得ています。

代々受け継いできた「ほんとうに良いものだけを提供する」という社是を胸にしながら、フグを食べるお客様、そのために働くフグ業界の方々、フグに関わる全ての人が笑顔になれることを目指して、フグ業界を根底から盛り上げるために日々尽力しています。